近衛上奏文

1945年(昭和20年)2月14日に、近衛は昭和天皇に対して、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる「近衛上奏文」を奏上した。


近衛は共産化の危険を訴え早期講和を主張したが天皇は、「もう一度戦果をあげてからでないとなかなか話は難しいと思う」と述べてこれを拒否した。

この時点で降伏していれば沖縄戦や原爆の悲劇はさけれたわけで「遅過ぎた聖断」といわれる。


ところで一部に天皇の「話は難しい」の話は人事にかんする話だと主張する向きもある。


しかし近衛上奏文の主張の第一は早期講和にあり、人事はそのための手段である。
天皇が講和ではなく人事の話として答えたとすれば、上奏文の文意が読めなかったかボケをかましたということになる。
また戦果を上げれば主戦派が勢いづき講和派の力は弱くなるので人事的には逆効果になる。
そしてまた昭和天皇独白録(文春文庫)には以下のような記述がある。


「その当時木戸と相談して、重臣を一人一人秘密裏に呼んで、前途の方針に付て、意見を求めたが、
確たる意見を持っている者は一人もない。岡田と牧野は比較的穏当な意見であったが、結論は云はぬ。
近衛は極端な悲観論で、戦を直ぐ止めたが良いという意見を述べた。
私は陸海軍が沖縄決戦に乗り気だから、今戦を止めるのは適当でないと答へた。
要するに楽観論と悲観論の二つに別れた。」


やはり天皇が拒絶したのは人事の話ではなく早期講和の話と結論してよいだろう。


もう一つ「近衛上奏文」絡みでよく出てくるのが「共産主義者の陰謀」というやつである。
近衛が天皇を説得するのに最も強力なレトリックとして「共産主義者の陰謀」を
持ち出したのは間違いない。しかし当人が単なるレトリックと考えていたのか、
深く信じていたのかは不明である。


けれども当時の日本共産党は国内では壊滅状態で、海外に逃れたわずかの党員が中国共産党と行動を共にして日本軍にたいして宣伝活動をしていた程度でとても革命を起こせる状態ではなかった。

共産主義者の陰謀で戦争が起きたとか、講和が遅れたというのは根拠のない陰謀論である。



年表

1944年 6月15日〜7月9日  サイパンの戦い
1944年 10月23日〜25日   レイテ沖海戦
1945年 2月14日   近衛上奏文
1945年 2月16日〜3月26日 硫黄島の戦い
1945年 3月26日〜6月23日  沖縄戦


近衛上奏文
http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/text/konoejousou.html
http://www.geocities.jp/since7903/zibiki/ko.htm#konoezyousyoubun



次回は現在日本で進行中の本物の陰謀について述べることにする。