高速増殖炉 もんじゅ

6月24日にもんじゅで落下した炉内中継装置の回収を無事終えた。原子力関係では久方ぶりに良いニュースである。もっとも推進派は出力試験の障害が無くなったと考え、反対派はこれで廃炉できると喜んでいるわけだが。


ちなみに私がどちらに属するかというと反対派である。
水とも空気とも激しく反応する金属ナトリウムとプルトニウムのコラボレーションは、とても正気の沙汰とは思えない。事故のとき軽水炉よりやばいでしょう。


あと前から気になっているのが「高速増殖炉」という名前である。
英語でも Fast Breeder Reactor (FBR)なのだが、高速中性子を使った増殖炉なのだから、「高速中性子増殖炉」とすべきではないのかな。中性子を省略すると「高速」が「増殖」にかかってしまう。


で肝心のもんじゅでの増殖性能ですが、増殖比(転換比) 1.2 、倍増時間 46年。
量的にもしょぼいが、増殖に要する時間も長い。事故がおこなくとも、その前に炉の寿命がつきそうな年月だ。(46年というのは日本原子力研究開発機構の出した数字で、NHK のドキュメントでは 90年との予想 http://rengetushin.at.webry.info/200911/article_3.html)


そして仮に増殖できたとしても、増殖した燃料を炉から取り出して再処理するという未知の領域が待っている。軽水炉の再処理すら満足にできない現状では核燃料サイクルなど夢のまた夢である。


ちなみに今回の回収作業の費用は17億5000万円。
09年度までにかかったもんじゅの総事業費は9032億円(建設費5886億円) 、維持だけで年間100億以上というのに比べれば安かったと一応言うべきかな。

足利事件と DNA 鑑定

[司法] 足利事件と DNA 鑑定


日経サイエンス 2009年7月号の塩谷喜雄のコラムで足利事件のDNA鑑定が
取り上げられていて、司法の科学軽視と一部のメディアのタイトルに怒っていた。


ネットのブログなどを見ると冤罪の怖さとか、司法の問題と正しく認識している人が多いが、
中にはピントのずれた記事もある。


本人はやってないのに、さぞ、驚いたことでしょう。
科学が信じられなくなったことでしょう!
もう神の罰が下ったとでも思うしかなかったでしょう!
可哀想という言葉などでは済まされないことです。
.....................................................

いつの時代でも「科学」は絶対ではないということを、
私たちは知っておかなければならないと思います。


マスコミのタイトルにも以下のようなミスリーディングなものがあった。


19年目の真実解明へ 深まる科学への疑念
http://www.shimotsuke.co.jp/special/ashikaga-jiken/news-scope

菅家受刑者は犯人なのか、無実なのか。当時の科学捜査の信ぴょう性が問われる。


因数分解足利事件 DNA型一致せず 「科学万能」に一石
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/245522/

 19年前に起きた足利事件でDNA型が一致しなかったとする東京高裁による再鑑定結果は、日進月歩の科学技術が冤罪(えんざい)を防ぐ有力な武器になり得ることを示す半面、「科学鑑定」を万能視しがちな捜査手法や司法判断にも一石を投じたといえます。


DNA型鑑定の「万能神話」揺らぐ 足利事件
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090421/trl0904212257022-n1.htm

 DNA型鑑定をめぐる捜査手法に「疑問符」がついたことで、鑑定の精度について議論が高まり、鑑定の有り方や別の事件の再審請求にも影響が出てくることも予想されてきた。「DNA型鑑定の万能神話」が揺らぎ始めた。



問題は「科学万能神話」にあるのではない。
当時 条件が良くても 1/800 の精度しかなかった DNA 鑑定を絶対視した裁判所の方にあるのだ。


あと最後の産経の記事にでてくる発言。


 足利事件の鑑定が行われた当時、警察庁鑑識課長だった岡田薫・元刑事局長は「具体的な内容が不明な段階で、個別的なコメントはすべきではないが、一般論として」と断った上で、 「厳密には、今回の鑑定に使われた細胞は当時鑑定に使われたものとは別のものだということ。たとえば、犯罪現場から容疑者の指紋が見つかったあと、その近くから全く別の指紋が見つかったからといって最初に見つかった類似指紋の証明力に変わりない」としている。

この発言の意味が理解できない。だれか説明してくれ。


現在は飛躍的に精度が向上し、今回は菅家さんの釈放に繋がったが、過信は禁物である。
コンタミ(他者の DNA による汚染)の危険性はあるし、なによりも
警察、検察、裁判所の体質が変らない限り、逆に冤罪作成の強力な道具となる危険性は高い。



参考リンク

足利事件、DNA鑑定精度向上ととぼけるマスコミの犯罪性
http://donoatari.jugem.jp/?eid=103


「DNA鑑定」の精度神話と、密室としての取調べ室
http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-750.html


最高裁判所の犯罪
http://takedanet.com/2009/05/post_cbdc.html


ACTION 日本を動かすプロジェクト|ACTIONコラム
http://www1.ntv.co.jp/action/2009/blog/


[自白の研究]DNA鑑定と冤罪疑惑
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20090524


豊穣な認識を有する捜査官は,客観証拠の乏しさなど気にしない?
http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2009/06/post-b2e3.html

疑似科学と歴史修正主義と東浩紀

疑似科学歴史修正主義の共通性については何人かの人が触れているのだが、
私も一言述べてみたい。



進化論否定論者のように南京虐殺を扱う東浩紀


「科学論争」ブーム?


  科学の方法論として「証拠に合わない仮説は棄却する」という原則がある。
この点については自然科学も社会科学も共通する。こうして棄却されずに残った仮説だけが自然科学や歴史学の体系を形作る。


   ところが既に棄却された仮説を宗教的情熱や政治的思惑で、
あくまで正しいと主張する人がいる。
それが自然科学の分野では「疑似科学」と呼ばれ、「歴史学」の分野では「歴史修正主義」と呼ばれる。


   もう一つ、「疑似科学」や「歴史修正主義」の論者の主張には「我々の主張は正しい」という強い主張の他に「平等に扱え」という弱い主張がある。

   具体的にいうと「進化論だけでなく創造論も教えろ」とか、「南京虐殺を疑問視する説も教科書に載せろ」という主張である。


   一見公平に見えるが、棄却された説と棄却されなかった説を同等に
扱うわけで、悪平等という他はない。


ここで、歴史修正主義者の弱い主張と東浩紀の主張を比べてみる。


渦状言論 「歴史認識問題についていくつか


   私には両者の違いが判らない。当人は違うと言うだろうが、「声に場所を与える」とか
「公共空間」が具体的になにを表わすのか説明してもらわないと。

   多くの人が既に指摘しているように、現状でも充分に場が与えられているわけで、
さらに場を広げるべきというのなら、修正主義者の味方と非難されても仕方なかろう。


>ガス室の有無はぼくとしては疑いえない。(中略)。
>けれど、南京大虐殺の有無についてはそのような強い実感がない。

と言ったり


>(この場合の南京大虐殺は例)

と言いつつ別の場所では嫌韓論従軍慰安婦を例に取りあげている。
真意を疑われても仕方あるまい。



>ぼくは転向するかもしれない。

御勝手に、というかすでに転向しているように見えます。


余談

ブログの注意書きに以下の記述がある。


>各コメントはそれぞれの発言者に属します。
>ただし、コメントは発言内に引用されることがあります。
>その場合は著作権東浩紀に属します。


東浩紀が引用したらコメントの著作権は発言者から東浩紀に移るの。
それは変でない?

アニメ 「めぐみ」

  このあいだ レンタル屋に DVD を借りにいったとき、
店頭の目立つところに アニメ 「めぐみ」が置いてあった。

  13才で拉致されて異国の地で死去した彼女は、
遺骨となって帰国すると今度は非科学的鑑定で政治の道具にされた。

  あわれという外はない。

*[近現代史]歴史修正主義について

歴史修正主義について最近盛り上がっているようだ。


【Close to the Wall】「なにが歴史修正主義の問題なのか」についての私見
【児童小銃】歴史修正主義の手口について


重要な論点は既に出尽くした感もあるが、私なりに思いついたことを書いてみる。


次のような例題を考えてみる。

あるスポーツの試合でAチームが99個の反則をし、Bチームが1個の反則を行ったとする。
このとき以下のような言説があった時、正しいのはどれだろうか。


(1) 両チームとも反則を行ったが、Aチームの方が圧倒的に多かった。
(2) 両チームとも反則を行った。
(3) Aチームは反則をしたが、Bチームにはしなかった。
(4) 両チームとも同じ位反則を行った。
(5) Aチームは反則をしなかった。


(1) が正しくて、(4)(5)が間違いなのは問題のない所。
しかし (2)(3) については微妙な問題を孕む。


形式論理では(2) は真命題、(3)は偽命題になるのだが、
(2) が正しくて (3) が間違いと言い切って良いのだろうか。
特に実際に試合をしていた Bチームの人間が (3) を言うとき、「お前は嘘つきだ」といった非難をすることは躊躇われる。


そこで情報という面で両者を比較してみる。
(2) には「Aチームの方が圧倒的に多かった。」という情報が欠落していおり、
(3) には「Bチームにも僅かながら反則があった。」という情報が欠落している。

どちらの情報のほうが重要かといえば 「Aチームの方が圧倒的に多かった」 という情報の方である。
より重要な情報を欠落させている点で(2) は(3)に比べて正しくないのだ。


この場合の「正しさ」は論路的正しさではなく、政治的正しさである。
(2) の言説は中立性にという点で(3)より問題があるのだ。



いうまでもないことだが、アカデミズムの場では (1)以外は排除すべきである。
また裁判の事実認定の場合も同様である。


現実の歴史修正主義者の殆どは (4)(5)の言説を取る。
Bチームに反則がない場合ですら (4)(5)の言説を取る。

光市事件についてのテレビ報道


 最初にこの事件について書いた時は何故こんなに弁護団がバッシングされるのか
分からなかった。YouTube などでテレビでどのように報道されたのかを見ると納得したが、
そら恐ろしくもある。


 テレビが弁護団を紹介するときには「死刑廃止論を展開する20人を超える大弁護団
といった枕詞が付き、コメンテーターは「死刑廃止運動をする弁護団」を批判する。


 この件に関心をもってある程度調べている人なら、弁護団には死刑存置論の人もいること。
弁護活動は死刑廃止と無関係に行われている事を知っている。
また今まで一度も弁護団がどのようにこの事件を死刑廃止運動に利用しているか具体的に指摘されたことはない。


 それにも関わらず、この段階でもまだ弁護方針と死刑廃止運動を結びつける報道を続けている。

光市弁護団と死刑廃止論

自滅するメディア(前編)


 全く根拠がないのに弁護団がこの事件を死刑廃止運動に利用していると非難を受けている状態は、
イラク戦争前にフセインが 9.11 に関係しているとアメリカ人の過半数が信じていたのと共通するものがある。



補遺.1

 あと「弁護団は無罪を主張」という報道もあった。これは「殺人については無罪」とか
「殺人ではなく傷害致死を主張」と言わないと誤解させると思う。


補遺.2

 この事件についてのオーマイニュースや Live Door のパプリックジャーナリストの
記事を見ると、テレビと大差ないのがほとんどであった。自分で少しも調べもせずにテレビ報道の
感想を書くだけではジャーナリストとは言えまい。


補遺.3

 以前からこの事件のテレビ報道の問題を指摘している
So-net blog:綿井健陽のチクチクPRESS

検察審査会

[司法]検察審査会


今回は「小ねた」

9月 9日の『たかじんのそこまで言って委員会』での宮崎哲弥の発言

裁判官というのは少なくとも最高裁判官については衆議院選挙と一緒に行われる国民審査がありますよね。
...(略)...
検察については検察審査会というのがありますよね。
弁護士については彼*1が言ってるのは弁護士自治という名の元に
どこからの批判もこないようになっているんだけど、
それではまずいから広く一般市民が懲戒請求を出せるようにした。
...(略)...

誰も突っ込まなかった。


一応解説すると検察審査会は検察官を弾劾する場所ではなく、
検察官が不起訴にした事件をくじで選ばれた一般人が審査する場所です。
一般人の司法参加と言う意味では裁判員制度と共通するものがあります。
検察審査会を舞台にしたテレビドラマもありました。

*1:橋下徹弁護士のこと