疑似科学と歴史修正主義と東浩紀
疑似科学と歴史修正主義の共通性については何人かの人が触れているのだが、
私も一言述べてみたい。
科学の方法論として「証拠に合わない仮説は棄却する」という原則がある。
この点については自然科学も社会科学も共通する。こうして棄却されずに残った仮説だけが自然科学や歴史学の体系を形作る。
ところが既に棄却された仮説を宗教的情熱や政治的思惑で、
あくまで正しいと主張する人がいる。
それが自然科学の分野では「疑似科学」と呼ばれ、「歴史学」の分野では「歴史修正主義」と呼ばれる。
もう一つ、「疑似科学」や「歴史修正主義」の論者の主張には「我々の主張は正しい」という強い主張の他に「平等に扱え」という弱い主張がある。
具体的にいうと「進化論だけでなく創造論も教えろ」とか、「南京虐殺を疑問視する説も教科書に載せろ」という主張である。
一見公平に見えるが、棄却された説と棄却されなかった説を同等に
扱うわけで、悪平等という他はない。
ここで、歴史修正主義者の弱い主張と東浩紀の主張を比べてみる。
渦状言論 「歴史認識問題についていくつか」
私には両者の違いが判らない。当人は違うと言うだろうが、「声に場所を与える」とか
「公共空間」が具体的になにを表わすのか説明してもらわないと。
多くの人が既に指摘しているように、現状でも充分に場が与えられているわけで、
さらに場を広げるべきというのなら、修正主義者の味方と非難されても仕方なかろう。
>ガス室の有無はぼくとしては疑いえない。(中略)。
>けれど、南京大虐殺の有無についてはそのような強い実感がない。
と言ったり
>(この場合の南京大虐殺は例)
と言いつつ別の場所では嫌韓論や従軍慰安婦を例に取りあげている。
真意を疑われても仕方あるまい。
>ぼくは転向するかもしれない。
御勝手に、というかすでに転向しているように見えます。
余談
ブログの注意書きに以下の記述がある。
>各コメントはそれぞれの発言者に属します。
>ただし、コメントは発言内に引用されることがあります。
>その場合は著作権は東浩紀に属します。