「百人斬り」の背景


向井・野田両少尉の行ったことは実際は「捕虜の据え物斬り」であったわけだが、二人が特別残忍だったのかというとそれは違うようである。
手元の二冊の戦記から引用する。

八路軍捕虜の最後

まず最初、九名のうち三十歳を少し過ぎていると思われる、長身で色の浅黒い、目つきの鋭いたくましい八路軍兵士を処刑した。
「天賀谷ッ、昨日斉山で戦死した根元の仇を討て!」
という柏崎中隊長の命令に、天賀谷三男上等兵茨城県出身)は「ハイ」
となんのためらいも見せずに捕虜の前に立って銃剣をかまえた。
天賀谷上等兵は、すでに初年兵教育中に捕虜刺殺を経験させられていたためか、
初年兵ながら実に沈着で、中隊長以下一同びっくりした。

(略)

この場で殺したのは天賀谷上等兵が刺殺した一名だけで、ふたたび八名の捕虜を引き連れて西へ前進した。五分ほどたったとき、突然後方で十数発の銃声が連続して響いた。
一瞬敵襲かと思ったが、まもなく「いまの銃声は保安隊が八名の捕虜を銃殺した銃声である」という連絡があった。銃殺の命令はもちろん柏崎中隊長が出したものである。


華北戦記」桑島節郎 朝日文庫(初版は 図書出版社 昭和53年)


首斬り軍曹

藤井軍曹については、もうひとつ、思い出したくもない記憶がある。
彼は外見のやさ男に似ず、度胸もあり、剣道も二段の腕前だった。
彼が希望したのかどうかは別として、大隊で処刑する中国軍俘虜の死刑執行は、もっぱら軍曹の日本刀による斬首ときまっていた。

(略)

私はこの血の凍るような光景に、一度だけ立ち会わされたが、国際法も何も、あってもないようなもので、平気で捕虜を死刑にしてしまう軍幹部も幹部だが、いかに命令によるものとはいえ、藤井軍曹はこの死刑執行人の役をもっぱら一人でうけおっていたようである。

(略)

敗戦後、藤井曹長は、国府軍から戦争犯罪人としてきびしく追及されたが、すでに第百三十二師団に転属しており、もとの第三十九師団からは除籍されていたため、追求の手を逃れて、昭和二十一年六月、無事故郷に帰還した。


「華中戦記」 森金千秋 図書出版社 昭和51年


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どうも旧日本軍では捕虜を殺すことは広く行われていて珍しい事ではなかったようである。

そして捕虜の処刑を止めなかった軍の上層部や多数の捕虜殺害者は逃げおおせている一方で、
両少尉は記事になったため容易に特定されて戦犯にされて割を食ったという面はある。

積極的に殺人競争を行った両少尉に罪があるのは明らかだが、
大々的に捕虜の処刑を行った日本軍の組織的問題の方が重大であろう。